エルヴィン・シュレーディンガー:量子世界を記述する波動方程式と猫の問い
量子世界の基本方程式と、理解を拒む奇妙さ
現代物理学、特にミクロな世界を理解する上で欠かせないのが「量子力学」です。その基礎を築いた偉大な物理学者の一人に、エルヴィン・シュレーディンガー(Erwin Schrödinger、1887-1961)がいます。彼は、量子的な粒子がどのように振る舞うかを記述する基本方程式、いわゆる「シュレーディンガー方程式」を確立し、「波動力学」を創始しました。
同時に、彼は量子力学が内包する奇妙さ、特に「重ね合わせ」という概念が巨視的な世界とどう結びつくのか、という根源的な問いを投げかけるための思考実験「シュレーディンガーの猫」でも非常に有名です。
この記事では、エルヴィン・シュレーディンガーの人生と、彼が物理学にもたらした革命的な貢献、特にシュレーディンガー方程式の意義と、現代でも議論を呼ぶ「シュレーディンガーの猫」が示す量子世界の深遠な問題について掘り下げていきます。
エルヴィン・シュレーディンガーとは
エルヴィン・シュレーディンガーは、オーストリア出身の理論物理学者です。1920年代に物理学の中心地であったチューリッヒ大学で教授を務めていた頃、量子力学における最も重要なブレークスルーの一つである波動力学を創始しました。彼は多才な人物であり、物理学のみならず哲学や生物学にも深い関心を持っていました。その探究心と独自の視点が、量子世界の新しい記述法へと彼を導きました。
しかし、彼の人生は必ずしも平坦ではありませんでした。政治的な情勢の変化により研究環境を転々とすることも多く、プライベートでも複雑な関係性を持っていたことが知られています。そうした波乱含みの人生の中でも、彼は物理学の根本的な問題に深く向き合い続けました。
波動力学誕生前夜:ミクロ世界への挑戦
20世紀初頭、物理学は大きな転換期を迎えていました。マックス・プランクによる量子仮説(1900年)を皮切りに、ニールス・ボーアの原子模型(1913年)は原子の安定性やスペクトル線をある程度説明しましたが、その理論的基礎はアドホックな仮定に依存しており、古典物理学とは相容れない奇妙なルール(量子条件)が導入されていました。また、これらの理論では、電子がなぜ特定の軌道を周回するのか、といった根本的な問いには明確に答えられませんでした。
このような状況下で、ルイ・ド・ブロイは、光が波動と粒子の二重性を持つならば、電子のような粒子もまた波動としての性質を持つのではないか、という画期的な仮説(物質波、1924年)を提唱します。これは、それまで「粒子」と見なされてきたものが「波動」としても振る舞うという、極めてラディカルなアイデアでした。
シュレーディンガー方程式の閃き
シュレーディンガーは、ド・ブロイの物質波の概念に強く触発されました。彼は、電子のような粒子が原子核の周りを回っている状態を、古典的な粒子が軌道を描くのではなく、「物質波」が原子核の周りに定常的な波動として存在している状態として記述できるのではないか、と考えました。これは、楽器の弦が振動する際に特定の「定常波」しか存在できないように、電子の物質波も原子内の限られたエネルギー状態に対応する定常波しか許されない、というイメージです。
このアイデアに基づき、シュレーディンガーは物質波の振る舞いを記述する方程式の構築に取り組みました。彼は古典力学におけるエネルギー保存の法則を波動の言葉に翻訳しようと試みました。そして、1926年、ついに彼の名を冠する偉大な方程式を発表します。それが「シュレーディンガー方程式」です。
この方程式は、粒子の状態を「波動関数」(通常 $\Psi$ で表されます)という数学的な関数で表現し、その波動関数が時間とともにどのように変化するか、あるいはどのような定常的な状態を取りうるかを記述するものです。最も基本的な非相対論的なシュレーディンガー方程式は以下のような形をしています。
$$ i\hbar \frac{\partial}{\partial t} \Psi(\mathbf{r}, t) = \left( -\frac{\hbar^2}{2m} \nabla^2 + V(\mathbf{r}, t) \right) \Psi(\mathbf{r}, t) $$
ここで、$i$ は虚数単位、$\hbar$ はプランク定数を $2\pi$ で割った値、$m$ は粒子の質量、$\nabla^2$ はラプラシアンという微分演算子、$V(\mathbf{r}, t)$ は粒子が感じるポテンシャルエネルギーを表します。波動関数 $\Psi(\mathbf{r}, t)$ は、位置 $\mathbf{r}$ と時刻 $t$ の関数です。
当初、シュレーディンガー自身は波動関数を物質が実際に波動として広がったものと考えていたようですが、すぐにマックス・ボルンが、波動関数の絶対値の2乗 $|\Psi(\mathbf{r}, t)|^2$ が、ある時刻にある場所で粒子が見つかる「確率密度」を表す、という確率解釈を提唱し、これが広く受け入れられるようになりました。これにより、シュレーディンガー方程式は、粒子の位置や運動量を正確に記述する古典力学とは異なり、粒子の振る舞いを確率的に予測する方程式として位置づけられました。
物理学への影響:量子力学の完成へ
シュレーディンガー方程式の登場は、物理学界に大きな衝撃を与えました。これは、ボーアモデルのような特定の系にしか適用できない理論ではなく、原理的にはあらゆる非相対論的な量子系の振る舞いを記述できる普遍的な方程式だったからです。水素原子のような簡単な系に対してシュレーディンガー方程式を解くと、ボーアモデルが与えるエネルギー準位を自然に導出できることが示され、その正当性が確認されました。
同時期にヴェルナー・ハイゼンベルクらは、行列を用いて量子系の状態を記述する「行列力学」を提案しており、当初これらは全く異なるアプローチに見えました。しかし、すぐにシュレーディンガー自身や他の物理学者によって、波動力学と行列力学が数学的に等価であることが証明され、これらが「量子力学」という一つの包括的な理論の異なる表現であることが明らかになりました。
シュレーディンガー方程式は、その後の原子物理学、分子物理学、固体物理学(物性物理学)などの発展の基礎となりました。電子が原子や分子の中でどのように配置され、結合がどのように形成されるのか、あるいは固体の中で電子がどのように振る舞うのかといった現象を、この方程式を用いて理解し、計算することが可能になったのです。
量子世界の奇妙さ:「シュレーディンガーの猫」の問い
シュレーディンガー方程式は絶大な成功を収めましたが、その確率的な性質や、量子系の「重ね合わせ」という概念は、物理学者たちに新たな、そして深遠な問いを突きつけました。特に、微視的な量子状態の重ね合わせが、なぜ私たちの日常経験する巨視的な世界では観測されないのか、という問題です。
この問題を浮き彫りにするために、シュレーディンガーは1935年に有名な思考実験を提案しました。それが「シュレーディンガーの猫」です。
実験は以下のよう hypothetical な装置を想定します。 1. 密閉された箱の中に猫が一匹入っています。 2. 箱の中には、放射性原子が一つと、ガイガーカウンター、毒ガス発生装置が設置されています。 3. 放射性原子は、一定時間内に崩壊する確率が50%であるとします。 4. もし放射性原子が崩壊すると、ガイガーカウンターがそれを検知し、毒ガス発生装置が作動して猫は死んでしまいます。 5. もし原子が崩壊しなければ、何も起こらず猫は生きています。
量子力学の原理によれば、箱を閉じた状態で、放射性原子は「崩壊した状態」と「崩壊していない状態」の重ね合わせにあります。すると、それに連動した猫の状態もまた、「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせになってしまう、と量子力学は示唆するように見えます。箱を開けて中を「観測」するまでは、猫は生きているとも死んでいるとも断定できない、というのです。
これは私たちの日常的な感覚とはかけ離れています。猫は生きているか死んでいるかのどちらかであるはずです。この思考実験は、量子力学の法則を微視的な系から巨視的な系へ単純に適用すると生じる不条理さ、そして「観測」という行為が量子状態にどう影響するのか(なぜ観測すると重ね合わせが解消され、状態が確定するのか)、という量子力学の解釈に関する根本的な問題を問いかけているのです。
この「観測問題」や量子力学の解釈については、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、量子デコヒーレンスなど、様々な議論や理論が現在でも活発に展開されています。シュレーディンガーの猫は、これらの議論の出発点の一つであり、量子力学の難解さと向き合うための重要な概念であり続けています。
現代科学・技術へのつながり
シュレーディンガー方程式は、単に理論物理学の抽象的な記述にとどまらず、現代の科学技術に不可欠な基盤となっています。
- 物性物理学と半導体: 固体中の電子の振る舞いは、シュレーディンガー方程式を用いて記述されます。これにより、導体、半導体、絶縁体といった物質の電気的性質が理解でき、トランジスタや集積回路といった半導体デバイスの開発に不可欠な「バンド理論」などが確立されました。これは、現代のあらゆる情報通信技術の根幹をなしています。
- 量子化学と材料科学: 分子や物質の構造、化学反応のメカニズムを理解するには、原子や分子を構成する電子の量子力学的振る舞いを解き明かす必要があります。シュレーディンガー方程式に基づいた量子化学計算は、新しい材料の設計や医薬品開発などに応用されています。
- レーザー: レーザーは、原子や分子の特定のエネルギー準位間での電子遷移を利用しています。これらのエネルギー準位や遷移確率は、シュレーディンガー方程式を解くことで得られます。
- 量子コンピュータ: シュレーディンガーの猫が提起した「重ね合わせ」の状態は、量子コンピュータの基本的な演算単位である「量子ビット」が持つ性質そのものです。複数の状態を同時に取りうる量子ビットの重ね合わせと、それらの間の「量子もつれ(エンタングルメント)」を利用することで、古典コンピュータでは膨大な時間がかかるような計算を効率的に行うことが期待されています。シュレーディンガーの猫は、量子コンピュータの原理を考える上でも示唆に富む思考実験と言えます。
まとめ
エルヴィン・シュレーディンガーは、量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式を確立し、ミクロ世界の記述に革命をもたらしました。この方程式は、ド・ブロイの物質波の概念に基づき、粒子の振る舞いを波動関数とその確率解釈によって記述します。シュレーディンガー方程式は、現代の物理学、化学、材料科学、そして半導体やレーザーといった基幹技術の揺るぎない基盤となっています。
一方で、彼が提起した「シュレーディンガーの猫」という思考実験は、量子力学が内包する「重ね合わせ」といった概念の奇妙さを鮮やかに示し、観測問題や量子力学の解釈に関する議論を深めるきっかけとなりました。この議論は、量子コンピュータのような最先端技術の原理にも深く関わっており、量子世界への私たちの理解は今なお進化し続けています。
シュレーディンガーの功績は、単に方程式を導出したことにとどまらず、ミクロ世界の記述に波動という新たな視点をもたらし、そして量子力学が持つ根源的な謎を私たちに問いかけた点にあると言えるでしょう。彼の探求心と洞察は、今なお私たちの知的好奇心を刺激し、物理学の物語を紡ぎ続けています。