エドウィン・ハッブルと宇宙膨張:静的な宇宙観を覆した大発見
広がる宇宙:当たり前になるまでの道のり
現代において、「宇宙は膨張している」という考え方は、科学の常識の一つとして広く受け入れられています。宇宙の始まりとされるビッグバン理論も、この宇宙膨張を前提として構築されています。しかし、これはほんの100年ほど前までは、誰も想像すらしていなかった衝撃的な事実でした。
人類の宇宙観を静的なものから動的なものへと根本的に変革した大発見。それをもたらしたのが、アメリカ合衆国の天文学者、エドウィン・ハッブルです。この記事では、ハッブルがどのようにしてこの驚くべき事実を発見したのか、その発見が当時の科学界にどのような影響を与え、そして現代の物理学や技術にどう繋がっているのかを見ていきます。
天文学への情熱:エドウィン・ハッブルの歩み
エドウィン・ハッブル(1889-1953)は、元々は弁護士を目指していましたが、オックスフォード大学で学んだ後に天文学への情熱を再認識し、シカゴ大学で天文学を修めました。第一次世界大戦での兵役を経て、当時世界最大の望遠鏡であった口径100インチのフッカー望遠鏡が設置されていた、カリフォルニア州のマウント・ウィルソン天文台に参加しました。
ハッブルは、卓越した観測技術と分析力を持つ研究者でした。彼が生涯をかけて取り組んだテーマの一つは、宇宙の構造と広がりを明らかにすることでした。特に、当時「渦巻き星雲」と呼ばれ、その正体が天文学者たちの間で大きな論争となっていた天体に関心を寄せました。
渦巻き星雲論争と静的宇宙の常識
20世紀初頭、多くの天文学者は、私たちの天の川銀河が宇宙の全てであると信じていました。夜空に見える「渦巻き星雲」は、天の川銀河の中にあるガスや塵の塊だと考えられていたのです。しかし、一部の天文学者は、これらが天の川銀河のはるか彼方にある、独立した別の銀河(島宇宙)である可能性を示唆していました。これが「渦巻き星雲論争」です。
また、当時の物理学や宇宙論においては、「宇宙は時間によらず変化しない、静的なものである」という考え方が主流でした。アルベルト・アインシュタインが1915年に発表した一般相対性理論は、本来であれば重力によって宇宙が収縮してしまうことを示唆していましたが、彼は宇宙が静的であるという当時の常識に合わせるため、「宇宙項」と呼ばれる項を方程式に付け加え、宇宙が収縮も膨張もしないように修正していたほどです。
ハッブルは、この二つの根強い常識に挑むことになります。
距離測定と後退速度:ハッブルの法則への道
マウント・ウィルソン天文台の強力な望遠鏡を使って、ハッブルは渦巻き星雲の観測を行いました。彼の主要な武器の一つは、セファイド変光星と呼ばれる特定の種類の星でした。セファイド変光星は、明るさが周期的に変化し、その周期と実際の明るさ(絶対等級)との間に明確な関係があることが知られていました(これは、天文学者ヘンリエッタ・スワン・リービットの重要な発見です)。セファイド変光星の見かけの明るさを測定すれば、その絶対等級と比較することで、星までの正確な距離を割り出すことができるのです。
ハッブルは、アンドロメダ座にある有名な渦巻き星雲M31の中にセファイド変光星を発見し、その距離を測定しました。結果として得られた距離は、天の川銀河の大きさをはるかに超えるものでした。この発見は、渦巻き星雲が天の川銀河の一部ではなく、独立した「島宇宙」、つまり銀河であることを決定的に証明し、「渦巻き星雲論争」に終止符を打ちました。これは1925年のことです。
さらにハッブルは、様々な銀河までの距離を測定し続けました。同時に、彼は他の天文学者、特にヴェスト・スライファーが測定していた銀河のスペクトルデータに着目しました。スペクトル線の波長が、光源が遠ざかっている場合は長波長側にずれる(赤方偏移)、近づいている場合は短波長側にずれる(青方偏移)という現象は、ドップラー効果として知られています。多くの銀河のスペクトル線が赤方偏移していることは、それらの銀河が私たちから遠ざかっていることを示唆していました。
ハッブルは、測定した銀河までの距離と、その赤方偏移から計算された後退速度との間に、驚くべき関係があることを発見しました。それは、銀河が私たちから遠ざかる速度は、私たちからの距離にほぼ比例するという関係です。これは現在、「ハッブルの法則」と呼ばれており、式で表すと v = H₀d
となります。ここで v
は後退速度、d
は距離、H₀
はハッブル定数と呼ばれる比例定数です。
宇宙観の変革:静止から膨張へ
1929年に発表されたこのハッブルの法則は、科学界に大きな衝撃を与えました。銀河が遠ざかっているだけでなく、遠い銀河ほど速く遠ざかっているという事実は、宇宙全体がまるで風船のように膨らんでいる、つまり宇宙が膨張していることを強烈に示唆していたからです。
この発見は、当時の主流であった「静的な宇宙」という常識を根底から覆すものでした。アインシュタインは自身の一般相対性理論に導入していた宇宙項を、この発見を受けて「生涯最大の過ち」と述べたと言われています(ただし、後に宇宙項は別の形で必要になることが判明しますが)。
ハッブルの法則が示す宇宙膨張は、宇宙の始まりを遡るという考え方、すなわちビッグバン理論の強力な証拠となりました。もし宇宙が現在膨張しているのなら、過去にはもっと小さく、高密度だったはずであり、さらに時間を遡れば、一点に集まっていた瞬間があったのではないか、と推測されるようになったのです。
現代物理学と技術へのつながり
エドウィン・ハッブルの発見は、現代宇宙論の礎石となりました。
- 現代宇宙論の発展: 宇宙膨張は、ビッグバン理論、宇宙マイクロ波背景放射の発見、そして宇宙の加速膨張(暗黒エネルギーの存在を示唆)といった、その後の宇宙論の発展に不可欠な要素です。ハッブル定数の正確な値の決定は、宇宙の年齢や未来を予測する上で現在も重要な研究テーマとなっています。
- 観測技術: ハッブルの業績は、より遠く、より暗い天体を観測できる大型望遠鏡の重要性を改めて示しました。彼の名を冠したハッブル宇宙望遠鏡は、地上からは難しい精密な観測を可能にし、宇宙の距離測定や初期宇宙の解明に多大な貢献をしています。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡のような後継機も、この流れを汲んでいます。
- 技術への応用: 宇宙論そのものが直接的な製品技術に繋がる例は少ないかもしれませんが、宇宙の理解はGPSをはじめとする衛星技術の基礎となり、また、観測データの解析には高度な情報技術が不可欠です。エンジニアリングの多くは、自然界の法則の理解の上に成り立っており、宇宙という究極のフロンティアの探求は、新たな技術や知見の源泉となり得ます。
まとめ
エドウィン・ハッブルによる宇宙膨張の発見は、単に天文学の一事実を超え、人類の宇宙に対する認識そのものを大きく変革しました。静的で限られた世界だと考えられていた宇宙が、広大に広がり続ける、ダイナミックな存在であることが明らかになったのです。
この発見は、観測技術の進歩と、ハッブルのような粘り強い観測者による努力、そしてそのデータに基づき宇宙の姿を読み解こうとする知的な探求心が結実したものです。偉大な物理学者や天文学者たちの探求は、遠い宇宙の謎を解き明かすだけでなく、私たちの足元の技術や社会にも、形を変えて影響を与え続けています。ハッブルの物語は、科学の発見がいかに世界の常識を変え、新たな時代の扉を開くのかを示す好例と言えるでしょう。